読まぬ日もある

「読んだよ」と誰かに話したいもののみ記す、雑読メモです。

永遠と一日

永遠と一日

日本の貿易商社のウィーン支店長夫人、瀬川幸子、50歳。
身なりにも態度にも万事隙がなく、周囲には少し冷ややかな印象さえ与える女性が、この物語の主人公だ。

瀬川夫人が、ある日、市場で、ジプシーの老婆から、青い「魔石」のはめこまれた美しいめがねを買ったことから、物語が展開する。

老婆の売り口上は、これをかければ「誰にでも会える、どこにでも行ける」だった。
買うそぶりのない瀬川夫人に、老婆は食い下がる。「昔の、あんたが見える」「淋しい、ちっぽけな女の子だったね。ひとりっきりで、暗い崖道を這いあがっている。人はみな去って、いない。淋しい姿だ。視えるんだよ」

瀬川夫人は青めがねを買い、そして、その威力を知ることになる。

青めがねのレンズ越しに何かを見ると、その世界に身体ごと移送され、移送先では丸一日過ごすのだが、その間、現実のウィーンでは、10分くらい眠っていただけ、という設定で、都合よく現実に戻ることができるのだ。

物語の前半は、正直、「え…?」と「引く」ほどのファンタジー。

青めがねをかけて「赤毛のアン」の本を見た直後、瀬川夫人は19世紀の「赤毛のアン」の世界にいた。気づくと、アヴォンリー村で、アンとダイアナに揺り起こされ、「おばさん、初めは死んでるのかと思ったのよ。青い顔して、原っぱに倒れているんですもの」なんて言われている。マリラに看病されてグリーン・ゲイブルスに一泊する。保安警察に連絡したと言われ焦っていると、気を失い、目覚めると、現実のウィーンに戻っている。

別の日、青めがねのレンズ越しに「白鳥の湖」の舞台を見たら、8世紀の「白鳥の湖」の世界に移送されていた。森の湖のほとりに夫人は倒れており、白鳥たちに起こされる。しばらく過ごしてから、気を失い、現実のウィーンに戻る。

「美女と野獣」の世界にも行って、戻ってきた。

青めがねの効果は所有者の瀬川夫人だけに限らず、装着してレンズ越しに何かを見た人すべてにあらわれた。

近所の子どもがいたずらをしているうちに、「サルカニ合戦」の小宇宙に連れていかれ、戻ってきた例もあったし、知人の女性を巻き込んで「ロビンソン・クルーソー」の世界に行き、ふたりして大冒険を経て、戻ってきたりもした。

そして、物語の後半は、トーンが一変する。

夫の瀬川氏は、実はモラハラ男だった。浮気を繰り返す。それを指摘すると開き直る。瀬川夫人への暴言もひどい。

「一生、借金で首のまわらん母親と一緒に、あのボロ家にいたほうがよかったのか、え?」
「あんなみすぼらしい、なさけない家もなかったな」
「おまえの母親というのは、全体を見通して計画を立てることが出来ない女だったんだな」
「その娘のおまえは、タイプはまるで逆だが、同じくらいタチが悪い。自分の思い込みを頑として押し通すところが共通している。どちらも、他人に嫌な思いをさせる。似た者ふたりで永久にあの家にいたほうがよかったのか、え?」
「女なんぞいくらでもいて、後妻の代わりはいくらでも、掃いて捨てるほどいたんだぞ!あれはおまえへの慈善だったんだぞ!」

言いたい放題の罵詈雑言。

後日、瀬川夫人は、青めがねと、古いアルバムの写真を使って、子供時代を過ごしたなつかしい、昭和30年代の横浜への「移送」に成功した。
その滞在が、これまでの、フィクションのファンタジー世界と大きく違っていたのは、瀬川夫人が50歳の大人ではなく、アルバムの写真と同じ小学生の「さっちゃん」そのものの姿になっていることだった。

貧しい母子家庭で、親戚たちに干渉され、抑圧されながらの暮らしだった。それでも、優しい母、ブン姉ちゃん(遠縁の娘で、働きながら夜学に通っている)、弟のフカ(深(ふかゆ)、父方の親戚の息子で、元・孤児)、犬のポンポがいた生活は、さっちゃんにとって心から愛おしいものだった(ブン姉ちゃんとフカは、貧しい家の居候として、さっちゃんにはわからない、肩身の狭い辛い思いをしていたのだけれど)。

小学校の友達も、先生も、初恋の男の子も、すべてなつかしかった。

ウィーンの現実が、だんだん遠くなっていく。思い出そうとするとつらくなって、頭痛がする。
頭痛とモヤモヤで頭が混乱する中、現実のウィーンに戻された時、瀬川夫人は、ウィーンで眠っていた時間と、移転先(横浜)の滞在時間が、フィクションのファンタジー世界に比べ、長くなっていることに気づく。

すこしずつ、しかし確実に、何かが狂いはじめている。
自分は「観察者」ではなく、昔の小さいさっちゃんに戻ってしまった。

思い出の横浜を訪れるたびに、さっちゃんの頭の中から、現実が薄れていく。思い出そうとするとつらくなるので、思い出すことを放棄したり。
現実のウィーンに戻った時、ドイツ語や息子を思い出すのに時間がかかったりするようになる。危うい。

現実のウィーンでは、瀬川氏によるモラハラが繰り返される。瀬川夫人は反論もしない。

楽しみに訪れていたはずの横浜の世界にも、つらいことが重なる。

犬のポンポが親戚の大叔父に殴り殺される。
弟のフカが、交通事故で死んでしまう。
ブンちゃんの親権を持つ叔父が、投機に失敗して、ブンちゃんを水商売で働かせるために、北海道に連れていってしまう。

瀬川氏と知り合ったのは、フカの葬式の日だった。裕福な家のひとり息子で、見た目もよい大学生だった。葬式を取り仕切ってくれた、さっちゃんの父の旧友の甥として参列していたのだ。

それにしても瀬川氏。さっちゃんより9歳年上の23歳で、婚約者もいる身でありながら、葬式の後、中学生で14歳のさっちゃんをドライブに誘い、弟の死がつらくて泣いている助手席のさっちゃんを抱き寄せ、唇にキスをしたのだ。

…未成年に対する不同意わいせつ罪でしょうよ。グルーミングか。

その後も何事もなかったかのようにドライブを続ける瀬川氏と、抗議も、泣きも、車を降りることもしなかった、さっちゃん。

貧しく、寄る辺ない生い立ちを経たせいか、自分を庇護してくれそうな男性に依存するさっちゃんは、大学卒業後に就職した会社で、妻子ある上司と長く不倫関係になった。その間も、その関係が切れてからも、お兄さん的存在として、瀬川氏はそばにいた。瀬川家が海外赴任中も堂々と訪ね、瀬川氏の妻が体調を崩してからも訪問をやめなかった。むしろ妻不在の家庭に入り込んだ。次男の出産と同時に亡くなった妻は、どれほど悔しく、苦しめられたか。
妻の死後まもなく、瀬川氏の後妻におさまり、遺児ふたりの継母となった。義両親や義親戚にも、反対された結婚だった。

宗教を持たないはずの瀬川夫人。物語の前半では、「死後の世界などない」「神も仏もいない」「何者をも信じない」と断言していたが、だんだんと、神様というワードがあらわれてくる。このたびの数々の異界での経験・過去への振り返りを経て、自分のすべてを見ている大いなる存在を、確信するに至る。これは本作の大きなテーマだと思った。

横浜の場面。

神様!見ておられますか、お憐みください。わたしはつらいのです。亡きフカちゃんやポンポに再会できたのは嬉しいのです。もう別れたくない。でもウィーンにわたしの家族はいるのです。ああわたしは一体、この先、どうしたらよいのでしょうか。どうかお助けください。楽にしてください、神様!

終盤の、決意の場面。
瀬川夫人の手元には、フカが死ぬ直前の朝に撮った写真がある。

わたしには宗教がわかりません。(略)でも、でも、神様、あなたがおられることだけはわかりました。
私の人生はまちがいだった。心優しい人たちの犠牲の上に、すべて築かれていました。(略)神様!いらっしゃいますか。いまここに、存在なさっている?なら、この、ちいさい人間の言葉に耳を傾けてくださいまし。心の底から思うことなので、どうか聴いてくださいまし。(略)最期の日、きっとあなたにお逢いする、そんな予感があるのです。あなたはちいさい粒のわたしをじっとご覧になる。そして低い声で「さっちゃん、どうだった?地球は?」とおたずねになる。わたしは、かぶりをふるばかりでしょう。せいぜい「全然、だめだったの」とお答えするばかりでしょう。だって、なんにも残らなかったのです。闘うのに忙しく、気をはって、全身鎧で固めて。わたしの横で、人生は風のように吹き過ぎてしまいました。でも、でも、神様。もし、幸子が哀れだと思ってくださるなら、そうなる前に、最後のお願いを聞いてください。堅い、この世の枠を一度おはずしくださいまし。幸子が「運命の訂正」をすることを、お許しくださいまし。神様、あなたはなんでもおできになります。なんでも!

「全然、だめだったの」。神様の前で、子供のような瀬川夫人。祈りの中で、神様は瀬川夫人をさっちゃんと呼ぶ。

「闘うのに忙しく、気をはって、全身鎧で固めて。わたしの横で、人生は風のように吹き過ぎてしまいました」が、とても沁みた。
けっしてなまけたわけではなく、そう生きるしかなかった、そう生きてしまったのだ。

【追記】

印象に残ったせりふ。
親戚のおばさんに、「よそ様の子までしょいこんで」と嫌味を言われた日の夜の、小学校に上がったばかりのフカの言葉。

「みんなに迷惑かけてる。生きてるだけで、お金がかかるんだもの。いまも、ご飯食べてる」

「さっちゃん、ぼくはなるべく、早く死ぬようにするよ」

親戚の大叔父が犬のポンポを殺した現場に、ブン姉ちゃんはいた。悪いのは大叔父なのだが、あとからいきさつを聞いたさっちゃんはブン姉ちゃんを責めた。

「なぜとめてくれなかったのよ?(略)おとなでしょ、ブンちゃん、力も出せるでしょ。なんで、みんなのために闘ってくれなかったの、嘘でも言い訳でもなんでもして、上手に立ちまわって、切り抜けてくれなかったの」

ブン姉ちゃんは涙を流して、言う。

「ごめんなさい」

「できなかった。おとなじゃないの、わたしは。強くないの」

「この世は、わたしにはむずかしすぎる。いますぐ死ねるものなら、死にたい」

「さっちゃん、いつか勘弁してくれるね。いつかずっと先に。本当にごめんなさい。わたしが9年前、この家に来たのが悪かったのかもしれない」

「さっちゃんは強くなってね」

「強くなって。わたしはだめだけど。わたしはこのまま消えたい」